不動産取引で本当に怖いのは「物件」ではなく「相手」である

不動産取引では、道路、境界、建築制限、雨漏り、耐震性、管理状況など、物件そのものを詳しく調査します。これらが重要であることは言うまでもありません。
しかし、物件に問題がなくても、取引相手が本当の所有者でなければ、売買の前提そのものが崩れます。
登記名義人になりすました人物が、偽造された本人確認書類や委任状等を用いて不動産を売却し、代金を詐取する手口は、一般に「地面師」による詐欺と呼ばれます。警察庁の警察白書でも、地面師は「自己に所有権のない土地を勝手に売り飛ばす詐欺師」と説明されています。
不動産は一件当たりの取引金額が大きく、売主、買主、仲介会社、司法書士、金融機関、代理人など、複数の当事者が関与します。そのため、安全な取引には、一つの書類だけに依存しない重層的な確認が必要です。
1.登記簿で分かるのは「誰が登記されているか」
不動産取引では、まず登記事項証明書を取得し、所有者の氏名・住所、共有持分、抵当権、差押え、仮登記などを確認します。
ただし、登記事項証明書から確認できるのは、法務局の登記簿に誰が所有者として記録されているかということです。
契約の場に現れた人物が、その登記名義人本人であることまで、登記事項証明書が証明してくれるわけではありません。
したがって、次の二つは分けて確認しなければなりません。
売主として登記されている者は誰か 目の前の人物が、その登記名義人本人か
登記情報と本人確認書類の氏名・住所・生年月日を照合するだけでなく、書類の有効期限、顔写真、住所変更の経緯、売却意思などを総合的に確認する必要があります。
2.宅地建物取引業者には取引時確認が義務付けられている
宅地建物取引業者は、犯罪収益移転防止法上の「特定事業者」に位置付けられています。
宅地・建物の売買契約を締結し、またはその代理・媒介を行う取引では、顧客の取引時確認、確認記録・取引記録の作成、疑わしい取引の届出などが義務付けられています。
もっとも、この取引時確認制度は、主としてマネー・ローンダリングや犯罪収益の移転を防止するための制度です。
法令上の本人確認を行ったからといって、なりすまし、代理権の不存在、意思能力、振込先の改ざんなど、取引上のあらゆるリスクが自動的に排除されるわけではありません。
法定の確認は最低限の基礎であり、個別取引の状況に応じた追加確認が必要です。
3.「権利証を持っているから本人」とは限らない
従来の権利証に相当するものとして、現在は「登記識別情報」が用いられています。
法務省は、登記識別情報について、登記名義人本人による申請であることを登記官が確認するための、本人確認手段の一つであると説明しています。
つまり、登記識別情報は、不動産そのものを表す有価証券でも、所持者が当然に所有者であることを示す身分証明書でもありません。
また、登記識別情報や旧来の権利証を紛失しても、所有権が失われるわけではありません。登記申請では、事前通知制度や、司法書士等の資格者代理人が本人確認を行って作成する本人確認情報を利用できる場合があります。
したがって、判断は次のようになります。
登記識別情報を持っていることだけで、本人と断定しない 登記識別情報を持っていないことだけで、詐欺と断定しない
本人確認書類、登記情報、面談内容、売却の経緯、司法書士による確認などを重ねる必要があります。
4.代理人取引では「委任状がある」だけでは足りない
所有者本人が高齢、入院中、海外在住、遠隔地居住などの事情により、代理人が売買手続きを行うことがあります。
代理人取引自体は珍しいものではありません。しかし、本人が出席しない分、確認すべき事項は増えます。
登記申請の公式な記載例でも、代理人が申請する場合には代理権限を証する委任状が必要とされ、所有権移転登記では売主の印鑑証明書等も確認資料となります。
実務では、委任状について少なくとも次の点を確認します。
対象不動産が正確に特定されているか 売買契約締結の権限があるか 売買価格を決定する権限があるか 手付金・残代金を受領する権限があるか 所有権移転登記を委任する権限があるか 委任状の作成日と有効性に不自然さがないか
さらに重要なのは、代理人から渡された連絡先だけに頼らず、可能な限り別経路で本人へ直接確認することです。
委任した事実、売却意思、売買条件、代金の受領口座を本人へ確認します。委任状の形式が整っていても、すでに撤回されている、権限の範囲を超えている、本人が内容を理解していないという可能性は残ります。
5.法人が売主の場合は「会社」と「担当者」を分けて確認する
法人名義の不動産を売却する場合、名刺を持った担当者が会社を名乗っているだけでは不十分です。
会社・法人の登記事項証明書は誰でも取得でき、代表者事項証明書では、現在の代表者と代表権に関する事項を確認できます。
法人取引では、主として次の事項を確認します。
法人が実在し、現在も有効に登記されているか 登記上の代表者は誰か 契約に出席する者は代表者本人か、従業員・代理人か 代理人に正式な権限が付与されているか 法人印と印鑑証明書が整合しているか 売却に必要な社内決裁を経ているか
取締役会設置会社では、「重要な財産の処分」は取締役会から個々の取締役へ決定を委任できない事項とされています。ただし、対象不動産の売却が重要な財産の処分に当たるかは、会社の規模、資産額、取引内容などによって個別に判断されます。
そのため、代表者の肩書だけでなく、会社内部で必要な承認が整っているかを確認する場合があります。
6.決済直前の「振込先変更」は特に注意する
本人確認が正しく行われても、決済直前に送金先を差し替えられれば、売買代金を失う可能性があります。
警察庁は、実在する取引先や経営者になりすまして、メールで振込先口座の変更を指示する「ビジネスメール詐欺」について注意を呼び掛けています。
攻撃者が事前にメールのやり取りを盗み見て、実際の決済時期や文面に合わせて偽のメールを送る場合もあります。送信元アドレスが本物とわずかに異なるだけで、表示名や文章の体裁が正確に再現されることもあります。
警察庁は、送金指示を受けた場合、メールだけで判断せず、名刺や自分のアドレス帳に登録された電話番号を使い、電話やFAXなど別の方法で確認するよう案内しています。メール本文に記載された電話番号自体が偽装されている可能性があるためです。
不動産決済では、次のような変更をメール一通だけで処理してはいけません。
売買代金の振込口座変更 司法書士・仲介会社の報酬口座変更 法人名義口座から個人名義口座への変更 国内口座から海外口座への変更 決済直前の緊急送金要請
変更が必要な場合は、既知の連絡先を用いた再確認、複数担当者による承認、金融機関への口座名義確認などを行うべきです。
7.「違和感」は証拠ではないが、確認を増やす理由になる
次のような事情が一つあるだけで、詐欺と断定することはできません。
売却を非常に急いでいる 市場価格より大幅に安い 本人が対面を避ける 代理人が本人との直接連絡を拒む 住所変更や改姓が複数回ある 本人確認書類の住所と登記住所が異なる 書類の提出を嫌がる 決済直前に振込口座を変更する 取引条件について過度な秘密保持を求める
それぞれに正当な理由がある場合もあります。
しかし、説明が不自然である、複数の不一致が重なる、確認を拒否するといった場合には、取引を急がず、確認方法を増やす必要があります。
「怪しいと思ったが、契約日が迫っていたから進めた」という判断が、最も危険です。
8.安全な取引は「一人の専門家」に任せるだけでは完成しない
不動産取引では、それぞれの関係者が異なる役割を担います。
宅地建物取引業者は、契約当事者、取引条件、物件情報、法令上の取引時確認などを確認します。
司法書士は、登記名義人、登記識別情報、本人確認、代理権限、所有権移転登記に必要な書類を確認します。
金融機関は、融資条件、口座名義、資金移動、抵当権設定などを確認します。
買主・売主自身も、契約内容、振込先、連絡相手、受領書類を確認しなければなりません。
どれか一つの確認だけで、すべてのリスクを防ぐことはできません。
9.実務で行うべき確認
安全な不動産売買のためには、最低限、次の確認が必要です。
最新の登記事項証明書を取得し、所有者・住所・権利関係を確認する 法令に沿った方法で本人確認書類を確認し、登記情報と照合する 売主本人の売却意思と取引条件を直接確認する 代理取引では、委任状の権限範囲と本人の意思を別々に確認する 法人取引では、代表権、担当者の権限、社内決裁を確認する 登記識別情報や印鑑証明書だけで本人と断定しない 振込口座の変更は、メール以外の既知の連絡手段で再確認する 不一致や説明できない事情が残る場合は、決済を延期する
確認の目的は、相手を疑うことではありません。
高額な取引だからこそ、後から疑う必要がない状態を、契約前に作ることです。
まとめ
不動産取引では、物件の欠陥や法的制限だけがリスクではありません。
相手が本当の所有者か。代理人に権限があるか。法人の担当者が会社を代表できるか。売却意思は確かなものか。振込先は正しいか。
これらが一つでも確認できなければ、どれほど魅力的な物件であっても、安全な取引とはいえません。
本人確認は、運転免許証を見るだけの作業ではありません。
登記、本人確認書類、意思、権限、連絡経路、送金先を相互に照合する工程です。
不動産取引で重要なのは、疑わないことではありません。
疑問が生じたときに立ち止まり、説明できるまで確認することです。
