COLUMN2026.10.01

【世界の不動産事情・第8回】

【世界の不動産事情・第8回】

韓国の「チョンセ」制度と返還リスク

韓国の住宅賃貸市場には、日本の一般的な賃貸借とは大きく異なる「チョンセ(전세)」という契約方式があります。

純粋なチョンセでは、借主が貸主へ高額な保証金を一括して預ける代わりに、契約期間中の月額賃料を原則として支払いません。契約終了時には、貸主が保証金を全額返還する仕組みです。韓国の住宅賃貸借では2年未満の期間を定めても原則として2年とみなされるため、チョンセも一般に2年単位で運用されています。

ただし、「月額賃料を払わない」という表現だけでは、チョンセの実態を正確に説明できません。

OECDは、一般的なチョンセ保証金について、住宅市場価格の50~70%程度に達する場合があると説明しています。借主はその巨額の資金を長期間拘束され、借入れで調達する場合には利息を負担します。つまり、チョンセは無償で住宅に住む制度ではなく、月額賃料を、高額な資金の提供とその機会費用に置き換えた制度なのです。

1.チョンセとウォルセの違い

韓国の民間賃貸住宅では、主に「チョンセ」と「ウォルセ(월세)」という二つの方式が利用されています。

契約方式 契約時の保証金 月額賃料 契約終了時 チョンセ 非常に高額 原則なし 保証金を返還 ウォルセ チョンセより少額 毎月支払う 保証金を返還

実際には、高額な保証金と月額賃料を組み合わせた中間的な契約もあります。そのため、韓国の賃貸市場を「家賃があるか、ないか」という二択だけで捉えることはできません。

チョンセの最大の特徴は、貸主が毎月の賃料を受け取る代わりに、借主からまとまった資金を無利息で受け取る点にあります。

貸主はその保証金を、住宅取得資金、既存借入金の返済、他の不動産の購入、事業資金などに利用できます。借主は毎月の賃料を支払わずに済みますが、その代わりに高額な自己資金を拠出するか、金融機関からチョンセ資金を借りなければなりません。

OECDは、チョンセが金利の高い時代と住宅価格の上昇局面で発達し、貸主が保証金を運用することで賃料に相当する収益を得る構造だったと整理しています。

2.チョンセは「住宅契約」であると同時に「金融取引」

チョンセを理解するうえで重要なのは、保証金を単なる敷金として考えないことです。

住宅価格の50~70%に相当する保証金を預ける場合、借主は実質的に貸主へ巨額の資金を提供します。貸主にとって保証金は返済義務を負う資金であり、借主にとっては契約終了時に回収しなければならない債権です。

そのため、チョンセ契約では、住宅の品質や立地だけでなく、次のような貸主の返済能力に関わる要素が重要になります。

住宅の市場価格 住宅に設定された抵当権 他の先順位権利 貸主の保有資産と借入状況 契約終了時のチョンセ相場 保証金返還保証への加入可否

日本の一般的な賃貸住宅では、借主が貸主へ住宅価格の過半に相当する資金を提供することは通常想定されません。しかしチョンセでは、借主が住宅の利用者であると同時に、貸主の主要な資金提供者になります。

この点に、韓国の住宅市場と金融市場が強く結び付く理由があります。

3.「チョンセ契約」と登記された「チョンセ権」は同じではない

韓国法には、登記によって設定される「チョンセ権(전세권)」という物権があります。

しかし、市場で一般に「チョンセ」と呼ばれている契約のすべてに、チョンセ権が登記されているわけではありません。多くは、高額な保証金を伴う住宅賃貸借契約として締結され、住宅賃貸借保護法によって借主が保護されます。

登記されたチョンセ権と一般の住宅賃借権は、権利の性質、成立方法、第三者に対する効力などが異なります。チョンセ権は登記によって成立する物権ですが、一般の住宅賃借権は契約に基づく権利であり、住宅の引渡し、転入届、確定日付などの手続によって保護を強化します。

したがって、「チョンセだから登記簿上も強い権利が自動的に設定されている」と考えるのは誤りです。

契約名称ではなく、実際にどの権利が設定され、どの保護要件を満たしているかを確認する必要があります。

4.住宅価格の下落が保証金返還を難しくする

チョンセの返還リスクは、保証金と住宅価格の差が小さいほど高くなります。

例えば、住宅の市場価格が5億ウォン、チョンセ保証金が3億5,000万ウォン、先順位の住宅ローンが1億ウォンあるとします。

この場合、保証金と住宅ローンの合計は4億5,000万ウォンです。

その後、住宅価格が4億ウォンへ下落し、競売ではさらに低い価格で売却された場合、売却代金だけでは住宅ローンと保証金の双方を全額返済できない可能性があります。

韓国では、このように住宅の処分価値に対して保証金や先順位債務が過大となった状態を、一般に「カントン・チョンセ」、直訳すれば「空き缶チョンセ」と表現することがあります。

また、契約更新時のチョンセ相場が以前より下落し、新しい借主から受け取れる保証金が既存借主へ返すべき保証金を下回る状態は「逆チョンセ」と呼ばれます。

既存保証金が3億5,000万ウォンで、新たな市場保証金が3億ウォンまで下がれば、貸主は差額の5,000万ウォンを自己資金や追加融資で準備しなければなりません。

韓国銀行も、借入金と賃貸保証金を活用して複数の住宅を保有する家計について、住宅価格、金利、チョンセ相場の変動によって保証金返還リスクが高まり得ると指摘しています。

5.保証金を返せないことと「チョンセ詐欺」は同じではない

保証金が返還されなかったからといって、すべての案件が詐欺に該当するわけではありません。

住宅価格の下落、新しい借主が見つからないこと、貸主の資金繰り悪化などにより、返還が遅れる場合もあります。これは重大な契約不履行ですが、直ちに刑事上の詐欺が成立するとは限りません。

一方、韓国の「チョンセ詐欺被害者支援及び住居安定に関する特別法」では、被害者として認定されるために、保証金の金額、競売・公売等による被害の発生、複数の借主への被害、貸主に返還意思がなかったと疑う相当な事情など、複数の法定要件が定められています。

したがって、次の二つは分けて考える必要があります。

返還不能・返還遅延

市場価格の下落 資金繰りの悪化 新しい借主の保証金に依存した返還構造 貸主の破産

詐欺が疑われるケース

住宅価格や先順位債務の意図的な隠蔽 返還能力がない状態での多数契約 虚偽の所有者や代理権による契約 保証金を返還する意思がなかったと疑われる事情

チョンセの構造的リスクと、故意による犯罪行為を混同すると、制度の問題点を正確に理解できません。

6.転入届と確定日付で借主の権利を強化する

韓国の住宅賃貸借保護法では、借主が住宅の引渡しを受け、転入届を行うと、その翌日から第三者に対する対抗力が生じます。

さらに、賃貸借契約書に「確定日付」を取得すると、住宅が競売や公売となった際、一定の条件のもとで後順位の権利者や債権者に優先して保証金の弁済を受ける権利を取得します。

しかし、対抗力や優先弁済権を取得すれば、保証金が必ず全額返還されるわけではありません。

借主より前に設定された抵当権がある場合や、競売価格が低い場合、売却代金そのものが不足する可能性があります。優先順位を持っていても、その順位に配当できる財産がなければ全額を回収できないことがあります。

また、契約終了後に保証金を受け取らないまま転居すると、住宅の占有や住所要件を失い、権利関係に影響が生じる可能性があります。

そのため、保証金が返還されない状態で転居しなければならない場合には、裁判所による「賃借権登記命令」を利用し、登記が完了してから転居することが重要です。賃借権登記が行われれば、転居後も対抗力や優先弁済権を維持または取得できる場合があります。

7.保証金返還保証は重要だが、自動的には付かない

韓国には、住宅都市保証公社「HUG」などが提供する保証金返還保証があります。

HUGのチョンセ保証金返還保証は、契約終了後に貸主が保証金を返還しない場合、一定の条件のもとで保証機関が借主へ保証金を支払い、その後、保証機関が貸主へ請求する仕組みです。

ただし、保証はすべてのチョンセ契約へ自動的に付帯するものではありません。

物件価格、先順位債権、保証金額、契約期間、申請時期、住宅の種類などに加入条件があります。契約を締結した後になってから、対象住宅が保証基準を満たさないと判明する可能性もあります。

したがって、契約前に確認すべきなのは、単に「保証制度が存在するか」ではありません。

その住宅、その保証金額、その権利関係で、実際に保証へ加入できるかを確認する必要があります。

HUGの「安心チョンセ」関連サービスでは、住宅の売買相場、チョンセ比率、競売落札価格の水準、保証事故に関する情報などを確認できます。

8.2026年時点でも被害対応は続いている

チョンセ保証金の未返還問題は、韓国で大きな社会問題となっています。

韓国国土交通部の発表によると、2023年6月に特別法上の被害者認定が始まってから、2026年6月末までに累計3万9,669件が「チョンセ詐欺被害者等」として最終認定されました。関係機関が実施した住宅、金融、法律、税務等の支援措置は、累計6万8,415件に達しています。ここでいう支援件数は、被害者数そのものではなく、各機関が行った支援措置の延べ件数です。

さらに、2026年5月12日には特別法の改正法が公布されました。

改正法には、特別法上の被害者について、保証金の3分の1を基準とする最低保障制度や、一定額を先に支給し、その後の競売配当等と精算する制度が盛り込まれています。

ただし、2026年7月25日時点で、この主要部分はまだ施行されていません。公布から6か月後の2026年11月13日施行予定です。

また、この制度は、通常のチョンセ保証金未返還をすべて国が補償するものではありません。

特別法上の被害者として認定され、法定要件を満たす場合に適用される事後的な被害救済制度です。契約前に加入する保証金返還保証とは、目的も対象も異なります。

9.契約前に確認すべき五つの事項

チョンセ契約では、内装、駅距離、間取りより先に、保証金の安全性を確認しなければなりません。

① 契約相手と登記名義人が一致しているか

所有者本人との契約であるか、代理人の場合は有効な代理権があるかを確認します。登記簿上の所有者、差押え、仮登記、抵当権なども確認する必要があります。

② 住宅価格に対して保証金が高すぎないか

売買相場だけでなく、実際に競売となった場合の処分可能価格を考慮します。保証金、先順位の住宅ローン、他の先順位権利の合計が処分価値へ近づくほど、回収リスクは高まります。

③ 返還保証へ加入できるか

「加入する予定」ではなく、契約対象物件が保証基準を満たすかを事前に確認します。保証への申請期限もあるため、契約後に放置してはいけません。

④ 入居後、速やかに転入届と確定日付を取得する

契約書を保有しているだけでは、第三者に対する優先的な保護は完成しません。住宅の引渡し、転入届、確定日付を適切に整える必要があります。

⑤ 保証金を受け取らずに先に転居しない

契約終了時に保証金が返還されない場合、転居前に賃借権登記命令などの手続を検討します。単に鍵を返して住所を移すと、保護要件に影響する可能性があります。

10.日本との最大の違いは「誰が住宅取得資金を提供するか」

日本でも、賃貸借契約時に敷金や保証金を預けることがあります。

しかし、韓国のチョンセでは、保証金が住宅価格の50~70%に達することがあり、借主が貸主の住宅取得や資産運用を事実上支える構造になります。

例えば、住宅価格5億ウォンの物件を、貸主の自己資金1億5,000万ウォンと、借主のチョンセ保証金3億5,000万ウォンで取得することも理論上可能です。

貸主は少ない自己資金で住宅を保有できますが、契約終了時には3億5,000万ウォンを返還しなければなりません。新たな借主から同額以上の保証金を受け取れれば返還できますが、相場が下がれば差額資金が必要になります。

この構造は、住宅価格が上昇し、チョンセ保証金も上昇する市場では機能しやすい一方、価格下落、金利上昇、賃貸需要の変化が起きると、貸主の資金繰りと借主の保証金回収を同時に不安定にします。

韓国銀行も、チョンセ保証金を活用する多住宅保有者について、市場金利、住宅価格、賃貸価格の変動が返還能力へ影響し得ると分析しています。

まとめ

チョンセは、「家賃を払わずに住める便利な制度」とだけ説明することはできません。

借主は高額な保証金を貸主へ提供し、貸主はその資金を利用する代わりに、契約終了時の全額返還義務を負います。

住宅価格と保証金が安定し、貸主に十分な返済能力がある限り、チョンセは借主の毎月の支出を抑え、貸主には資金調達手段を提供します。

しかし、保証金が住宅価格に近い場合や、先順位の借入れが多い場合、住宅価格の下落や保証金相場の変化によって返還が困難になる可能性があります。

重要なのは、「月額家賃がないか」ではありません。

保証金は誰が保有し、何に使われるのか。 住宅の処分価値はいくらか。 自分の権利順位はどこか。 保証金を返還する資金は、契約終了時に本当に存在するのか。

チョンセは住宅賃貸借であると同時に、借主と貸主の間で行われる大規模な金融取引です。

その構造を理解して初めて、利便性とリスクの双方を正しく評価できます。